3世紀のローマ軍と要塞を想像した、暗い空の下に兵士が集う油彩画風イメージ

ローマ

ローマ帝国の3世紀の危機

西暦235~293年。3世紀の危機から四帝統治の成立まで

軍人皇帝から四帝統治へ

3世紀のローマ帝国では、軍隊が推す皇帝が次々と現れ、内戦と短期間の交代が続きました。
この不安定な時期を「3世紀の危機」と呼びます。
帝国を立て直すため、は、複数の皇帝で統治を分担する制度を整えました。

軍隊が皇帝の地位を左右する

皇帝の地位を保つには、軍の支持が必要でした。
危機に先立つセプティミウス・セウェルスも、軍への報酬を厚くして支配を支えています。

235年、皇帝セウェルス・アレクサンデルが、軍の反乱で殺されました。
その後、各地の軍に支持された人物が皇帝を名乗るようになります。

別の軍隊が別の皇帝を推せば、争いが起こりました。
軍に支えられた皇帝が、その軍によって倒されることもあり、政治が安定しなくなったのです。[2]

帝国を治める仕組みを変える

284年に即位したディオクレティアヌスは、広い帝国の仕事を、一人で担う体制を変えました。
293年に整えたのが、です。

二人の正帝が東西を分担し、それぞれに副帝を置きました。
正帝はディオクレティアヌスとマクシミアヌス、副帝はガレリウスとコンスタンティウスです。
四つの独立国を作ったのではなく、一つの帝国の統治を四人で分けた制度でした。[1]

地方の組織も組み替える

ディオクレティアヌスは、を以前より細かく分けました。
また、軍隊を指揮する仕事と、地方の行政を行う仕事を分離していきます。

統治を分担するのは、皇帝だけではありませんでした。
地方の組織にも手を入れることで、広い領土を管理し直そうとしたのです。[1]

分担だけでは争いは終わらない

四帝統治は、皇帝の仕事を分ける試みでしたが、長く安定して続いたわけではありません。
皇帝の地位をめぐる争いが再び起こりました。

その争いを勝ち抜き、324年に帝国全体の支配を手にしたのが、です。
ローマは危機を乗り越える中で、皇帝と地方組織の仕組みを大きく変えていきました。[1]

出典・参考資料

  1. メトロポリタン美術館「The Roman Empire (27 B.C.–393 A.D.)」(2000)
  2. メトロポリタン美術館「The Severan Dynasty (193–235 A.D.)」(2000)

画像について

AI生成による油彩画風のイメージです。特定の戦闘を再現したものではなく、人物・建築・装備の細部に創作を含みます。

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