紀元前6世紀、現在のイランを中心に、アケメネス朝ペルシアが勢力を広げました。
その領土は、西アジアからエジプト、中央アジア、インド北西部に及びます。
異なる言葉や信仰を持つ地域を、一人の王の支配の下につないだ帝国でした。
キュロスがバビロンを征服する
紀元前550年、ペルシア王キュロス2世は、メディアの王を破りました。
続いて西へ勢力を広げ、紀元前539年にはバビロンを征服します。
これによって、の都市もペルシア王の支配に入りました。
キュロスの息子カンビュセスは、紀元前525年にエジプトを征服します。
ペルシアは、いくつもの古い王国を取り込んだ大きな国家になったのです。[1]
広い帝国をどう治めたか
ダレイオス1世の時代には、地方を治めるサトラップという統治者の仕組みが整えられました。
王がすべての土地を直接見て回る代わりに、各地の統治者が支配を担いました。
王の命令や報告を届けるための道路も整備されました。
道路と地方の統治者は、離れた地域を王の支配につなぐ役割を持ちました。[1]
王の建築と碑文が伝える姿
ペルセポリスの宮殿には、各地の人々が王のもとへ進む姿が彫られています。
異なる服装の人々が並ぶことで、王が多くの地域を治めていることを示しました。
キュロスの円筒形碑文には、バビロン征服後の行為がで記されています。
神々への配慮や建設の仕事を述べ、キュロスが正当な王であることを主張する資料です。
現代の「人権宣言」と同じ文書ではありません。[2]
アレクサンドロスの征服で終わる
帝国は、その後も王を替えながら続きました。
紀元前4世紀、マケドニア王アレクサンドロスがペルシアへ攻め込みます。
ダレイオス3世はその軍と戦いましたが、支配を守れず、紀元前330年に殺されました。
アレクサンドロスがペルシアの領土を引き継ぎ、アケメネス朝の支配は終わりました。[1]
出典・参考資料
- メトロポリタン美術館「The Achaemenid Persian Empire (550–330 B.C.)」(2004)
- 大英博物館・キュロスの円筒形碑文、所蔵番号1880,0617.1941(検索で確認できた公開解説を参照)
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