ドナウ川を渡るゴート人の家族と対岸のローマ兵を想像した、ゴヤ風の陰影のある古い絵画イメージ

ローマ

民族移動と西ローマ帝国

西暦376~476年

476年には、何が終わったのか

の終わりとして、よく挙げられる年が476年です。
この年、イタリアの皇帝が廃位され、新しい西側の皇帝は立てられませんでした。
その背景には、長い戦争と、領土を失っていく過程がありました。

ゴート人がローマ領へ移る

4世紀後半、が勢力を広げると、の集団が西へ移動しました。
376年には、ドナウ川を越えてローマ領に入る許可を求めます。

ローマ側は受け入れましたが、食料の不足や対立が起こり、戦争へ発展しました。
378年のアドリアノープルの戦いでは、ローマ軍が大敗し、東側の皇帝ウァレンスも命を失いました。
その後も、ゴート人と帝国の交渉や戦争は続きます。[1][2]

東西の皇帝が、それぞれ統治する

395年、テオドシウス1世の死後、二人の息子が帝国の東西を治めました。
この後、と西ローマ帝国は、別々の政治の動きをたどります。[3]

西では、ゴート人の指導者アラリックとの対立が続き、410年にローマが略奪されました。
帝国を象徴する都市が襲われましたが、これだけで西側の皇帝の支配が終わったわけではありません。[4]

領土を失い、軍を支える収入が減る

439年、が、北アフリカのカルタゴを占領しました。
北アフリカは、ローマ世界に食料を供給する豊かな地域でした。[5]

領土を失うと、西ローマが得られる税収も減りました。
軍を維持する費用が不足すれば、残った領土も守りにくくなります。
戦争、領土の喪失、財政の悪化が重なり、帝国の支配を弱めていきました。[4]

476年に終わったもの、続いたもの

476年、軍人が、皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させました。
イタリアでは新しい西側の皇帝を立てず、オドアケルが支配を担いました。
この出来事が、西ローマ帝国の終わりを示す節目とされています。[4][6]

一方、を中心とする東ローマ帝国は、その後も続きました。
後世にはと呼ばれますが、人々は自分たちをローマ人と考えていました。[7]

476年に、ローマの都市や人々の生活がすべて消えたわけではありません。
西の皇帝の支配が終わり、政治の形が変わった一方で、東では帝国が続いたのです。

出典・参考資料

  1. テキサス大学 Linguistics Research Center「Gothic Online, Lesson 9」:376年の移動の背景。
  2. アンミアヌス・マルケリヌス「The Battle of Adrianople, 9 August 378 CE」Fordham University:古代史料の英訳抜粋。ローマ側の著述であることに注意。
  3. メトロポリタン美術館「Italian Peninsula, 1–500 A.D.」:395年の東西統治の区分。
  4. Donald L. Wasson「Fall of the Western Roman Empire」World History Encyclopedia(2018):410年、476年と軍事・財政の概略。
  5. メトロポリタン美術館「Western North Africa, 1–500 A.D.」:北アフリカの経済とヴァンダル王国の年代。
  6. 大英博物館「Introduction to ancient Rome」:西の帝国の分裂と476年の皇帝廃位。
  7. メトロポリタン美術館「Byzantium (ca. 330–1453)」:東ローマの存続とローマ人としての認識。

画像について

AI生成による絵画風のイメージです。ゴヤを参考にした陰影と色調で、ドナウ川を渡る移住者とローマ側の人々を想像しています。特定の家族や渡河地点を再現したものではありません。

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