漢とシルクロードを題材にしたイメージ

対外交流

漢とシルクロード

紀元前206年~西暦220年。前漢と後漢の間に中断がある

都・記録・外交から見る広い世界

は、秦の後に中国を治めた王朝です。
長安や洛陽を政治の中心とし、中央アジアとの外交や交易も広がりました。
その交流は、後にシルクロードと呼ばれる交通網の歴史につながります。

前漢と後漢で都が変わる

漢は、前漢と後漢に分けられます。
前漢は紀元前206年~西暦9年、後漢は西暦25~220年です。
その間には別の政権があり、同じ王朝が途切れず続いたわけではありません。

前漢の都は長安、後漢の都は洛陽でした。
長安には宮殿、住居の区画、市場があり、多くの人と品物が集まりました。[1]

学問と歴史の記録が発達する

前漢の武帝の時代には、学問や文学が盛んになりました。
司馬遷は『史記』を著し、古くから自分の時代までの歴史をまとめました。

『史記』には、国の周辺に暮らす人々についての記録も含まれています。
後の歴史書に大きな影響を与えましたが、その呼び名や評価には、書いた側の見方も反映されています。[1]

張騫は外交のために西へ向かう

武帝は、張騫を中央アジアへ送りました。
目的は、漢の敵に対抗するための同盟相手を探すことでした。
最初から交易用の道路を造る事業だったわけではありません。

張騫の旅と報告によって、漢は西方の地域について詳しい情報を得ました。
その後も使節の往来が続き、外交や軍事の動きとともに、交易のつながりが広がっていきます。[2]

シルクロードは道の網である

シルクロードは、東西を一直線に結ぶ一本の道路ではありません。
都市やオアシスをつなぐ複数の経路があり、商人は区間ごとに品物を運びました。

絹などの品物は、人から人へ渡り、遠くの地域へ届きました。
すべての商人が中国からローマまで旅したわけではありません。
その途中にある都市や人々も、交易を支える重要な存在でした。[2]

長安と中央アジアをつなぐ道は、漢の後も長く使われました。
漢の外交と交易は、何世紀にもわたって変化を続ける交通網の一段階に当たります。[3]

出典・参考資料

  1. メトロポリタン美術館「Han Dynasty (206 B.C.–220 A.D.)」(2000)
  2. UNESCO「About the Silk Roads」
  3. UNESCO世界遺産センター「Silk Roads: the Routes Network of Chang’an–Tianshan Corridor」

画像について

AI生成によるイメージです。人物・建築・器物の細部に創作を含みます。

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